ホームページ開設にあたって
少し長めのプロローグ
この度、ホームページを作るにあたって、私自身と映画との半世紀(!)以上になる関わりを振り返ることにしました。少し長くなりますが、お付き合いいただけると幸いです。
私は東京都の西に位置する八王子市の生まれです。周囲を映画館に囲まれて育ちました。家から歩いて1分(いや、30秒?)のところに日活の直営館がありました。さらにその先、神社を突っ切って反対側に東映、松竹、大映の直営館(徒歩2分)。これらと反対の方角。スクランブル交差点を渡ってすぐのビル内に、洋画の2本立て専門館ニュー八王子映劇と洋画のポルノ映画の専門館あんぐら劇場がありました。この2館は後年併せて、さらに改築されてニュー八王子シネマとしてシネコンスタイルのロードショー館に変わりました。家から一番遠かったのが、東宝の直営館でしたが、それでも自宅から子どもの足で10分ほど。思えば、映画を見るには大変恵まれた環境にいました(残念ながら2017年3月にニュー八王子シネマは閉館。当時の映画館はなくなってしまいました)。
最初に映画館で見た映画…がなんだったのかは、ハッキリと覚えていません。しかし、父親に連れられて八王子日活で『大怪獣ガッパ』(1966)を見たことはたしかです。あるシーンの台詞が鮮烈に記憶に残っているのと、父が晩酌しながら何度か「ガッパっていうからてっきり河童の大将が出てくるのかと思った」と笑いながら話していたのを覚えています。『ウルトラQ』や『ウルトラマン』等、TVの中の怪獣たちに夢中になっていた私がねだったのか、父が自主的に連れていってくれたのか。父なき今となっては確かめようもありませんが、ゴジラやガメラといったメジャーな怪獣ではなく(そのどちらも熱狂して見ていましたが)、ガッパというあたりが「らしい」といえば、らしい気もしています。
同時にテレビっ子でもあったので、たまたまテレビをつけたら始まっていた映画を途中からおかまいなしによく見ていました。これは…映画館でもそうで。2本立ての場合、最初から見ようとなると大変で、当時は入れ替え制ではなかったので、1本目の途中から入って、2本目を見て、もう一度、見逃した1本目の頭から途中まで見て、脳内でつなげるということを普通にしていました。これは私が特殊だったわけではなく、周りの映画好きの子どもや大人たちもよくしていました。また、入れ替えではないので、お気に入りの映画はそのまま客席に留まって、繰り返し見ることも可能でした。今にして思えば、この経験も大きかったのかも知れません。一度目は、自分が見て驚き。二度目は、自分が撮ったわけでもないのに、驚く周囲の観客の反応を見て、留飲をさげる。そして、二度見ることで、最初に見た時に気づかなかった細部に気づく。
70年代前半は、ブルース・リーを頂点にした空前のクンフー映画ブーム、『エクソシスト』以降のオカルト映画ブーム、『タワーリング・インフェルノ』や『JAWS』などに牽引されたパニック映画ブーム。映画が、ある種の社会現象になるような、幸福な時代でもありました。
あと、大きかったのは、民放各局が競うようにゴールデン・タイムに玉石混交のいろんな映画を放映してくれたことです。スティーブ・マックイーンの『大脱走』が前篇と後篇に分けて放映された翌日は、小学生のクラスメートたちが、有刺鉄線のかわりに、ジャングルジムを上って撃たれたようにぶら下がり、休み時間や放課後、大いに盛り上がりました。
実家が夫婦共働きで商売していたこともあって、近所の空き地と同様に、映画館も日常の中にぽっかり空いた非日常的な遊び場でした。時に幼い弟や妹を連れて、東映まんがまつりや東宝チャンピオンまつりに通い、特撮映画やアニメ映画に親しみ、やがて小学生の高学年になり、ひとりでこわごわと洋画の2本立てを見に行きました。レイ・ハリーハウゼンが特撮を駆使した『シンドバッド黄金の航海』(1973)とジャック=イヴ・クストーの長編海洋ドキュメンタリー映画『沈黙の世界』(1956)のリバイバルでした。この2本で、一気に映画に魅了された!…というわけではなくて(笑)この時に次回予告で見た『007黄金銃を持つ男』(1974)と『サブウェイ・パニック』(1974)が面白そうで、それ以降ニュー八王子に通うようになりました。『スティング』(1974)と『ジャガー・ノート』(1974)の2本立て、『ボルサリーノ2』(1974)と『ガンモール』(1975)の2本立て、『エクソシスト』(1973)と『ルシアンの青春』(1974)の2本立て等々。時にジャンルの異なる雑多な映画を一緒に見るという経験も、その後自分が映画を作る上で大きな影響を受けたことかも知れません。
中学生になって決定的な映画に出会います。ジャン=ポール・ベルモンド主演、アンリ・ベルヌイユ監督の『恐怖に襲われた街』(1975)というサスペンス仕立てのアクション映画です。自ら危険なスタントもこなすベルモンドがとにかくひたすらカッコよくて、映画が終わって呆然。脳内にはエンニオ・モリコーネの主題曲がループし、その日の夜だけなく、翌日の授業もうわの空。生まれてはじめて、同じ映画を2日続けて2度見ました。
ブルース・リーやスティーブ・マックイーン、クリント・イーストウッド、千葉真一などアクションもこなせるスターに憧れましたが(同時に『ヘルハウス』(1973)のロディ・マクドウォールと『ジャッカルの日』(1973)のエドワード・フォックスにも痺れましたが)、映画に向かって、決定的に背中を押されたのがジャン=ポール・ベルモンドの存在だったかも知れません。同時にスタントマンという職業にがぜん興味が出て、中学校の一時期、放課後になると、友人と時には一人で近所の塀を飛び越え、廃屋の二階から飛び降り、屋根から屋根に飛び移り、いまでいうパルクールのようなことをしていました。よく大けがをしなかったものです。
同じ頃、中古の8ミリキャメラを入手して、同級生と短編映画を撮りはじめました。高速道路沿いの広い斜面をモデルガンで撃ち合って転がったり、高尾山への遠足の様子をフィクション化したフェイクドキュメンタリーや、ひたすら、ものを食べたり、いろんなアクションを撮影し、それを逆回転上映して友人たちと見ては大笑いするような他愛もないような、映画ごっこでした。映写機を買うお金もなく、友人たちとエディター(編集用の機械)の小窓に顔を摺り寄せるようにして撮った映像を見て大喜びしていました。
映画製作熱は、中学、高校(学校の校舎の屋上を血のりで染めてリアル=映画版『桐島、部活やめるってよ』なゾンビ映画を作りました)、そして大学と続き、同級生たちを巻き込んで(本当にいい迷惑だったと思いますが、彼ら彼女たちのうち何人かとは今でも友達付き合いが続いています)ほぼ毎年なんらかの形で8㎜自主製作のアマチュア映画を撮り続けていました。大学は映像系ではなく、立教大学文学部心理学科に入学。社会心理学を専攻しました。
ここでの大きな出会いは蓮實重彦さんの担当されていた「映画表現論」という映画の授業とその授業を通じて親しくなった心理学科の仲間たちです。さらに2年生から途中入部した映画製作サークル、セントポールズ・プロダクション(通称SPP)の仲間や先輩、後輩たちです。同サークルには後に映画監督やプロデューサー、脚本家として活躍する先輩方がいて、皆さん、精力的に映画を作り続けていました。
黒沢清さん、万田邦敏さん、砂本量(鈴木良紀)さん、浅野秀二さん、塩田明彦さん、小中和哉さんら後に脚本家や監督、制作やCGプロデューサーとして活躍することになる錚々たる面々がいました。同じサークルではありませんでしたが、周防正行さん、五十嵐匠さん、冨樫森さん、青山真治さんもほぼ同時期立教に在学していました。
時代はバブルに差し掛かっていましたが、綺羅星のごとく8ミリや16ミリで自主製作映画を撮り続けている先輩たちでさえ、思うように映画が撮れないなか、とても自分にチャンスが巡ってくると思えませんでした。一度は映画と全く違う道に進むことも考えましたが、どうしても映画への思いは断ち切りがたく、映画の作り手としてではなく、作り手たちを何等かの形でサポートすることは出来ないか。そう考えて、大学を卒業して勤めたのは、当時、道玄坂のTHE PRIMEビルの6階にあったセゾン系のミニシアター、シネセゾン渋谷でした。
そこでホール係、チケットの販売、モギリ、前売券の委託、納品。様々な店にチラシを置いてもらったり、ポスターを貼ったりする地道な営業、宣伝活動。映写技師、売り上げ、興行報告書の作成。レイトショー作品の番組編成の手伝い。時には日本未公開映画のタイトルの邦題やキャッチコピーを考えるなど、映画館にまつわる仕事はすべてしました。
この時期、少しでも自分たちの映画館の宣伝になればと、「海外旅行雑誌」に映画の紹介記事を書き始めたのをきっかけに、ライターの仕事も始めるようになりました。いまだに忘れられないのが二人の映画人との出会いです。シネセゾン配給のイタリア映画『肉体の悪魔』の主演女優マルーシュカ・デートメルスと同じく同社が配給した『デ・ジャ・ヴュ』の監督ダニエル・シュミットです。今考えると本当に贅沢なのですが、一介の従業員に過ぎなかった私を、当時の支配人や配給会社の人たちが打ち上げの席などに同席させてくれたのです。その時に垣間見た彼らの姿、言動が背中を押されて、もう一度映画を作ってみたいと思うようになりました。4年間務めたシネセゾン渋谷を退社した後は、アテネフランセ文化センターで、映写技師と企画を担当。また、映画会社に勤める友人たち数人とイラン映画の上映権利を買い付けて劇場公開し、敬愛する黒沢清監督の映画『地獄の警備員』をたった一人で宣伝・配給しました。映画ライターとして、北野武監督やクエンティン・タランティーノ監督などにインタビューする仕事や映画批評も書くようになりました。それらが、すべて自分の仕事につながっています。
それらと並行するような形で、89年、昭和が平成への変わる年に、映画館で出会った仲間たちと共に5年ぶりに1本の8ミリ映画を作りました。『留守番ビデオ』という30分の8ミリで撮った短編映画です。この時、主役を演じた上村美穂さんと再度組み、結果的に初めて正式に劇場公開されることになった長編映画が『おかえり』です。撮影は94年11月。同年12月半ばに撮影は終了。翌95年1月編集の真っ最中に阪神淡路大震災、オウムの地下鉄サリン事件が起きました。95年の初夏に完成した同作を携えて、生まれて初めて自作映画を携えて海外の国際映画祭を回りはじめました。あれから25年(8ミリ映画時代含めると43年!)今も悩みを抱えながら映画作りを続けています。